Background Story
LAST UPDATE 2009.4.9

第一章 始まりの物語「ふたりのかくれんぼ」

 オレンジ色の夕日が揺れる電車の中。赤ちゃんを抱いたおばあさんと女の人がぐっすりと眠っている。



 あるところにとてもおもいびょうきをもってうまれてきた女の子がいました。女の子は「わたしなんてうまれてこなければよかった」といいました。「どうしてうまれてきたの?」とお母さんはなきました。女の子のお母さんは、女の子をふつうの女の子にみえるようにそだてることにいっしょうけんめいでした。

 女の子はよくおひめさまのえをかきました。お母さんはそれをおよめさんのえとかんちがいして「あなたはけっこんできないのよ」といいました。女の子のお母さんはずっと女の子のめんどうをみるつもりでいました。お母さんとてをつないでかようびょういんはきらいじゃなかったけれど、女の子はあまりながくいきていたいとはおもっていませんでした。



 2008年2月、雪がしんしんと降る朝のことでした。わたしは3208gの男の子を出産し、その、まだしわくちゃな顔の赤ちゃんを抱く母の後ろ姿を見つめていました。長かった入院生活と2日間の陣痛の末の緊急帝王切開。まだ実感のない喜びと痛みの中、目の前の夢から覚めてしまわないか、そればかりが気になって。ある女の子だったわたしはなかなか眠ることができませんでした。

 1980年、わたしは母の実家のある札幌でこの世に生を受けました。母は妊娠中、胎動がないことを不思議に思いながらも仕事を続け、里帰りの日を待っていました。一方、それから28年後のわたしの妊娠生活はと言うと、持病に加え、切迫流産、子宮筋腫と状態は優れず、自宅安静の日々が続いていました。

 元気な母から病気の私が生まれたように、病気の私から必ずしも病気の赤ちゃんが生まれてくるとは限らない。それでも、病気が遺伝するのではないか?母体が弱いせいで赤ちゃんがちゃんと育たないのではないか?どこの病院がこの出産を引き受けてくれるのか。家族の心配は積るばかりでした。

 わたしは病気と共存しながら、人の知れず苦労することもありましたが、表向きふつうの人と変わらない生活を送ることができました。どんな壁に出会ったって、努力と工夫で乗りきればいい。母に導かれてなんとかここまで生きてこられましたが、努力してみてやっと一人前。当たり前に人として生きることがわたしたち親子にとっての痛みだったことは言うまでもありません。



 女の子がかいたおひめさまのえをみて、かなしそうなえがおをうかべるお母さん。お母さんはほんとうにいっしょうけんめいなひとでした。でも、お母さんは、女の子がどれだけがんばっても、"ふつうのしあわせ"をつかむことはできないとおもいこんでいました。

 「お母さん、いつになったらおともだちに、びょうきのこと、はなしてもよくなる?」お母さんは女の子に、「うまくひとにまぎれていきなさい」にといいました。

 女の子の"びょうきのためのどうぐいれ"はいつもかわいいポーチを。くつも女の子のあしにあうオシャレなものを。どうか、ふつうの女の子にみえますように。お母さんと女の子はずっとかくれんぼをしているようでした。



 ガタン……ゴトン……ガタン……ゴトン……。電車が心地好く揺れています。一ヶ月健診の帰り、久しぶりに母と電車に乗りました。昔はそこに、疲れ果てて眠る母の隣で、必死に目を擦るわたしがいました。

 お母さんは、びょうきのこどもをうんだ"ははおや"だから、ひととはちがうくろうをしていることをわたしはよくしっています。つよいお母さん。いっしょうけんめいなお母さんをみながら、わたしはいつかすてられる!このままねむってしまったら、おきたときにお母さんはそこにいない……!



 幼かったわたしはそう思い込んでいました。車窓に流れる町並みと夕日に染まる人々の影、どこにでもある風景の中に今日もわたしたちは生きています。でも、ほんとは想像できていなかった。わたしとお母さんと赤ちゃんが3人そろって、ここにいるなんて。

 「どうして生まれてきたの?」

 今ならその質問に答えられるかもしれません。人より少し強く生きる為に。わたしも母親になる為に。お母さん、あなたに会う為に。もういいかい?もういいよ。……いつの間にかわたしも眠っていました。人並みの幸福と自信の中で、夢見るようにぐっすりと。

(C) 2009 AKIKO YAMAGUCHI